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凡例織田 信長
紙本著色織田信長像
(狩野元秀画、長興寺蔵、重要文化財)[注釈 1]
時代戦国時代(室町時代後期) - 安土桃山時代
生誕天文3年5月12日(ユリウス暦1534年6月23日、先発グレゴリオ暦1534年7月3日)
あるいは天文3年5月28日(ユリウス暦1534年7月9日、先発グレゴリオ暦1534年7月19日)[注釈 2]
死没天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日、先発グレゴリオ暦1582年7月1日)
改名吉法師(幼名)→信長
別名通称:三郎、上総守、上総介
神号建勲
戒名総見院殿贈大相国一品泰巌大居士
天徳院殿龍厳雲公大居士[注釈 3]
天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門[注釈 1]
墓所本能寺(京都市中京区)
大徳寺総見院(京都市北区)
妙心寺玉鳳院(京都市右京区)
阿弥陀寺(京都市上京区) 他
官位従三位・権大納言、右近衛大将
正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位
贈従一位・太政大臣、贈正一位
幕府室町幕府
主君斯波義銀→足利義昭
氏族織田弾正忠家(勝幡織田氏)
父母父:織田信秀、母:土田御前
兄弟信広、信長、信勝、信包、信治、信時、信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利、お犬の方、お市の方
妻鷺山殿(濃姫)(斎藤道三の娘)
生駒氏[1](生駒家宗の娘)
坂氏の女
於鍋の方(高畑源十郎の娘)
養観院(不明)
他の側室は下記を参照。
子信忠、信雄、信孝、五徳、相応院、勝長、秀子、羽柴秀勝、信秀、信吉、信貞、永姫、報恩院、信高、信好、長次、於振、源光院、三の丸殿、月明院、信正
養女等に関しては下記を参照。
花押
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織田 信長(おだ のぶなが)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。戦国の三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権」[注釈 4])を確立して天下人となった戦国時代を代表する英雄である[2]。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。
これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府への流れをつくった画期的なもので、その政治手法も革新的なものであるとみなされてきた[3]。しかし、近年の歴史学界ではその政策の前時代性が指摘されるようになり、しばしば「中世社会の最終段階」とも評され[3]、その革新性を否定する研究が主流となっている[4][5]。 織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた[注釈 5]。信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった[注釈 5]。 永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した[注釈 5]。そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ[注釈 5]。永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した[注釈 5]。 一方で、室町幕府の将軍・足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家の足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした[注釈 5]。美濃の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった[注釈 5]。
概要